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これからの百年へ、オオバを変えた震災復興 ―

震災復興事業

“ 被災地をコンパクトシティとして再生させたオオバの仕事術 ”

Fujisawaサスティナブル・スマートタウン構想 藤山吾朗 氏

工学院大学教授
星 卓志 氏

2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地のひとつ宮城県亘理郡山元町。震度5強の地震とそれに伴う津波により、637人の命が失われ、全壊2,217棟(うち流出1,013棟)などの大きな被害を出した。発災後、全国各地から自治体職員などが多数、復興支援に駆けつける中、彼らを取りまとめ山元町の復興・再生に尽力したのが、当時、札幌市都市計画部長だった星卓志氏である。同氏から見たオオバの貢献についてお話を伺った。

※記事中の所属・役職は取材当時(2022年12月)のものです。

山元町の復興・再生を強力な布陣で支えたオオバ

星 卓志 氏 山元町の復興・再生を強力な布陣で支えたオオバ

「私は、山元町震災復興本部参与(兼務)として山元町で2週間に1度開かれる会議の司会進行を務める一方、札幌市役所の都市計画部内に山元町復興支援室(全員兼務)を置いてバックアップ体制を整えました。私がオオバさん(以下、オオバ)と出逢ったのはその定例会議の席上です」。
オオバは、復興計画着手から、被災した方々との調整、計画策定、新市街地をつくる事業計画策定、施工管理など一連のプロセスに参画した。当時の状況とは、また、オオバの仕事ぶりについて。
「あの緊急時、強いプレッシャーの中で答えを出していかなければならない状況にあって、技術的な問題に関し迅速かつ的確に検討してもらい、本当に頼りになりました。特に印象的だったのは、オオバが決して担当者任せにはしないことです。支援チーム内で十分な検討・すり合わせを行った上で、次の会議には、常によりハイレベルな答えを持ってきてくださる。クオリティ・コントロールが素晴らしいですね」。
その時の状況をつけ加えるとオオバは東北支店まちづくり部、本社、東京・名古屋支店の応援を得てチームを編成。山元町に40人が常駐し、2週に1度の会議には6~8人出席するという強力な体制で臨んでいた。

被災地で最も早い災害危険区域設定、コンパクトシティ化の推進

しかし、印象的だったのはクオリティ・コントロールだけではないと星氏は語る。「国との契約では企業は仕様書に書かれている範囲内で業務を遂行するわけですが、オオバは仕様書の枠を超えて、次から次へと出てくる課題に柔軟に対応してくださったのです。非常時だったとはいえ、よくぞそこまでやってくださったと思います」。
その甲斐もあってか、2011年11月11日、山元町は、他のすべての被災自治体に先駆けて、災害危険区域を設定することができた。
そして、この作業と同時併行で推進したのが新しいまちづくりである。内陸側を走る国道6号沿いに山元町が形成されていったという歴史的経緯を踏まえた集団移転を行うとともに、内陸部に移設されるJR常磐線の新駅などを核に3つの新市街地を形成するのである。広域に分散していた人口や都市機能を一定の範囲内に集約し、コンパクトシティ化するということであり、それを技術的に支えたのがオオバであった。

高い評価を得た新市街地づくり

苦節1年半の後、藤沢SSTに遂に灯った信号 星 卓志 氏

2013年4月、星氏は札幌市および山元町の仕事を離れ工学院大学教授に就任したが、山元町との関わりは続け、2017年、星研究室として新市街地住民(約800軒)に対して、震災前と比較して日常生活がどう変化したかアンケート調査を実施している。
「外出する機会の増加、利便性の向上という点で8割以上の方々が高く評価してくださいました」。
それを裏付けるように、震災後の2015年国勢調査で、(2010年の16,700人台から)約13,000人へと大きく減少していた山元町の人口が、2020年国勢調査では14,000人台へと増加に転じたのである。
「この時点での人口増加は、震災後に町外に転出していた住民の一部が戻ってこられたというに留まらず、新規の移住者が増えたことによるものだったのです。このことは、復興計画の策定段階から目標としていたことです。」と星氏。
「チーム山元withオール・オオバ」による成果の一端である。後にこの復興事業は山元町が復興計画策定に取り組んだ当初からの方針を一貫して堅持し、多様な関係者の重層的な支援体制のもとに計画策定に至ったこと、先駆的な取組みは将来の大規模災害時の復興に際し参考となり得ることが評価され、2015年度の日本都市計画学会の学会賞で計画設計奨励賞を受賞した。